おばあちゃんのひとりごと

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限りない平安に包まれた無我の境地

 昨日は嬉しいことに姉夫婦が、葉っぱつき大根やら小松菜やら
お米やらピーマン他を、持ってきてくれた。山の方の家で手作り野
彩を作っているのです。ありがたくて嬉しくて おいしくいただくの
です。義兄さんの優しい心に、姉の情に感謝なのです。そうそう、
じねんじょも、でした。ありがたい。片道一時間半もかけてね。
 ありがたいことこのうえもなし……ただただ 愛なり……
   

   愛情っていいなぁ

   ほんのちょっとのことで
   つたわる愛 つたわらない愛
   それはおたがいなんだな
   愛とは求めるのでなく与え
   愛とはしらないうちにいただいてる
   
   ほんのちょっとの優しさ思い遣りなんだ
   それが大事なことなのだ
   愛とはお互いに なんとなく感じる
   愛とは見えないけれど大事な なにかなんだ
   愛とは知らないうちに 心に育っているんだ

―ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー母の遺言

 母の遺言
   孫と次代に遺す
   入魂の書          砂村 豊か 著より

 13 真夏の股引き
 
 私の知人に真夏でも厚手の股引を穿いている男がいる。暑くないかと聞くと
暑いという。ではなぜ脱がないのか、と再度問うと、面倒臭いからだという。
 ちょっと首をひねりたくなるが、人のことに干渉するなというから、もう効かな
いことにしている。確かに変わっている。
ーーーーーー省略ーーーーーーー
 禅僧が地中に体を沈め、わずかな水以外に食物を絶って何日も瞑想してうち
過ごすのも、これと共通した目的意識があればこそである。こういう苛酷な荒行
を奇蹟的耐え抜いた修行者に言わせると、一週間から十日くらいが最もつらく、
極度の疲労感やら空腹の苦しさで目がくらんだり幻覚に悩まされたりするそうだ
が、それを過ぎると、むしろ限りない平安に包まれた無我の境地に至るという。

 私は、かつて湯河原から熱海の自宅まで意を決して歩いたことがあるが、約半
分近くの行程で両ひざに痛みを覚え、よほど中止しようかと思ったが、やがてそれ
を過ぎ、湯河原から熱海間の峠道を超えたあたりから、もはや何の痛みも感じなく
なったのには、我ながら驚いたものである。
 インド人の中には、肌身に何本針を刺しても平気な顔をしている人がいる。「痛く
ないんですか」と尋ねると、「痛いと思わねば痛くない」という。我ら凡人にはちょっと
考られぬことだが、そこが修行者の修行者たる所以なのであろう。
 
 思えば釈迦の時代にも、極限の痛苦に身を苛むことが、解脱への不可欠の過程
と考える宗派が存在した(ジャイナ教ほか)・

 面白いことに、荒行に耐える修行者には、臨死体験者との共通性を見てとれる。
 それは脳内酸素の急激な減少であり、それとともに起こりがちな幻覚の体験と、
天然麻薬ともいわれるエンドルフィンの湧出に伴うある種の心地よさであり安らぎで
ある。近代科学二よつても確認された「この種の神秘的な体験」を仏教が先取りして
いたとすれば、驚嘆の他はない。

 もっとも釈迦は、極度の荒行からは距離を置いた。わが身を限りなくただただ物理
的に痛めつけることの先に「正覚」はないことを見抜いた。

 では、自分を鍛えること自体にあまり意味はないのか。そんなことはない。温暖な
気候に恵まれた静岡県人の中から、歴史に名を遺すほどの巨人や気骨ある者があ
まりでていないとは、よく聴くことである。

ーーーーー省略ーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ふっふ ふっふ
 わたしもそんな気持ちあるわぁ。散歩のときね。
 だってクタクタに疲れたって、それ以上に歩くんだ。
 もう駄目だ。と思う、その先をもっと努力するとね。もう なんともなくなり歩く 歩く。

 悟りは開けないけど、そうなんだ。平安の心にはなっていると思う名ぁ。あっは アッハ。

 短歌

  あね夫婦の優しさ嬉し秋野菜届けられ食す愛を食す

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フェアリーグランマ

Author:フェアリーグランマ
ひとり暮らしのおばあちゃんですが、毎日を詩や短歌を作って楽しんで暮らしています。

心に残った本の一節を御紹介させて頂いております。

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